投稿者: YamanouchiKatsura

  • 意匠の類似判断基準

     意匠紛争において、もっとも基本的な争いは、ある製品を販売している意匠権者が、その製品に非常に似通っている別製品を製造・販売する業者に対して、その製品の製造・販売差し止めと損害賠償を請求する形のものです。
     特許・意匠紛争では、慣用的に、被告が扱っている侵害品をイロハの符号で特定します。ABCでもよさそうなものですが、私もなぜかは知りません。そういう慣例になっています。
     ちなみに、民事訴訟での原告側証拠には甲、被告側証拠には乙の符号を使い、以下丙・丁と続きますが、これもどうやら慣習のようです。さらに刑事訴訟では、乙号が被告人の供述等、甲号がそれ以外で、どちらも検察官が提出し、弁護士の提出する証拠は弁号とされます。このあたりも、特に明文の根拠がない慣習のようです。なお、甲・乙は法律に根拠のある場合も結構あります(甲種・乙種などと資格区分が規定されている例など)。
     ちょっと脱線してしまいました。

     意匠侵害で重要になる「類似」の判断は、どのようにされるべきか。
     この点、最近の裁判例でいわれている表現によれば、「意匠に係る物品の性質、用途、使用態様、さらには公知意匠にない新規な創作部分の存否等を参酌して、需要者の注意を惹き付ける部分について要部として把握した上で、両意匠が要部において構成態様を共通にするか否かを中心に観察し、全体として美感を共通にするか否かを判断すべき」とされます。
     すなわち、まず、需要者の注意を惹きつける「要部」はどこかの認定が必要であり、その要部に関して、異なった美観を与えるか否かで決めるという二段階の論理です。
     例えば、「要部」でない一部分がそっくりであっても、全体的な観察からみて、そのそっくり部分が「要部」といえなければ、意匠が類似しているとは言えないということです(ただし部分意匠の場合は別の問題あり)。
     
     実際の裁判紛争では、「要部」の議論に多くが費やされます。例えば原告が立面から見るべきと言えば、被告は側面から見るべきと言いますので、裁判所としては、まずその意匠をどの視点で観察するのかを判断しなければなりません。その「視点」を決めるのは、「当該物品の性質、目的、用途、使用態様等」ですから、意匠紛争では、当該意匠製品に関するそれらの性質等を、実際の使用事例やマーケット調査によって原告が立証しなければなりません。
     従前、公知意匠(当該意匠登録前から存在していたありふれたデザイン)と比較して創作的である部分が共通していれば類似とする考え方があったため、平成18年改正により、意匠法24条2項が追加されて、「需要者の視覚を通じて起こさせる美感に基づいて」判断するように規制されたのですが、同改正後も公知意匠と比較した創作部分の有無を、需要者の視覚を通じた美観に加えて、類似性判断の資料にすることが一般的に行われています。
     前回も説明した通り、この部分の「需要者の視覚」は、現実には人それぞれであって、決して実在しない抽象的な「需要者」なので、実際には、数多くの根拠資料を提示し、裁判官に対する説得が重要になってくる部分です。
     
     意匠侵害訴訟は判断者の知識・経験・人格に左右されやすい点で、非常に結論を読みにくい印象があります。

  • 意匠の同一・類似の判断基準、裁判における「視点」の問題

     意匠登録により、新しいデザインは登録から20年間保護されます。そして、万一、同一類似の意匠が現れた時には、意匠権を根拠にして使用の差し止め等を請求でき、あとから同一類似意匠の登録請求があっても登録されないので、これを阻止できます。
    問題は、どんな場合に、同一・類似といえるのか、という点です。
    この点、意匠法3条1項では 「公然に知られている意匠 」「公刊されている意匠」「それらに類似する意匠」の登録が禁止され、同2項では、公然知られた意匠から容易に考案できる意匠も同じ扱いをされています。
     裁判例上では、1項は「一般需要者の立場から見た美観」の問題であり、2項は「当業者の立場から見た着想の新しさ・独創性」の問題であるといわれています。

     法律では、このように、ある規定の適用について、「誰の視点・立場」から見るかが重要な場面があります。
     民法などの一般的な規定の適用に当たっては、「一般通常人の立場」から見るのが通例です。この「一般通常人」という概念は実は、相当の「クセ者」であり、ある意味決して実在しえない「人」であるにもかかわらず、裁判では、それが基準となります。そして、最終的には、その事件を担当した裁判官が、「世間一般の普通の感覚を持った特に優れてもいないが劣ってもいない普通の人だったら、どう考えるだろうか」と推測を交えて考えて、結論を出すことになります。

     裁判での争いは、いかにして、裁判官に対して、「自分の主張する立場=世間一般の通常の感覚・視点」だということを、伝え、教育し、説得し、誘導して、自分の主張と同じ立場に立ってもらうかの勝負です。
     そのために必要なのは、サポートとなる資料です。これがなければ、単に「自分勝手なことをわーわー言っているだけの人」で終わってしまうのです。
     裁判では、「きちんとした裏付けをもとにして語る人」が最も信用されます。日ごろから、事実経過について、きちんと記録に残しておくことはこの観点から非常に重要です。

     もう一つ、重要なことは、決して「説明できない不自然な流れ」を作らないということです。
     第三者から見て、「なぜそんなことをしたかな」「どうしてそうなるのかな」という疑問を抱かせるような行動や資料が残っている反面、その一見不自然にも見える流れが第三者からみても自然だなと納得させうるサポート資料が残されていない場合は、この「不自然な流れ」に対する裁判官の疑問も解消できず、ひいては、仮に、(『事実は小説より奇なり』という言葉もありますように)「その不自然なありようそのものがまぎれもない歴史的真実」であったとしても、第三者(裁判官)の目からみたら、「不自然=信用できない」という判断をされかねない危険があるからです。

     意匠の話というより、裁判の話になってしまいました。ただ、上記のようなことを法的紛争場面で意識するかしないかによって、大きな損益の差が生じかねないので、予防法務的には注意を払う必要があると思います。

  • 民法改正に思う(駄

    民法は、改正債権法といいながら、総則部分にも結構変更がある。しかし、これで94条2項類推という、学部生のころ、なんだか法律家らしくて妙に気に入った解釈論をしなくて済むようになるのはもの寂しい気分でもある。改正法後はどのあたりが面白くなるんだろうか。